「 あのとき、なんであんな言い方をしたんだろう 」
ふと過去の自分を思い出して、胸のあたりがきゅっとすることがあります。
今なら、もう少し違う言い方ができたかもしれない。
相手の反応を気にしすぎていたのかも。
あの頃は、少しでも自分を大きく見せるために必死だったな。
そう見えるからこそ、昔の自分が少し恥ずかしくなることがあります。
でも、その恥ずかしさを、ただの黒歴史として片づけなくていいです。
過去の自分を見て恥ずかしくなるのは、過去の自分がダメだったからとは限りません。
今の自分の視点が育ったから、昔の自分の姿が見えるようになった。
まずは、そういう視点から振り返ってみます。
恥ずかしくなるのは、昔の自分と距離ができたから
人は、その渦中にいるとき、自分の姿をあまり見られません。
- 相手の反応を見る
- 言葉を選ぶ
- 空気を読む
- なんとかその場をおさめようとする
そのときは、目の前のことに必死です。
このとき、自分では 必要な対応 をしているだけだと思っています。
大人として普通にやっているだけ。
ちゃんと対応しようとしているだけ。
そう感じている間は、自分がどれだけ無理をしているのか、見えにくくなります。
でも、時間が経って少し安心が戻ってくると、昔の自分の動きが見えるようになります。
「 あのとき、かなり無理していたな 」
「 あれは本音というより、不安からの反応だったのかも」
そう見えたとき、人は少し恥ずかしくなります。
けれど、その恥ずかしさは、昔の自分を責めるためだけに出てくるものではありません。
昔の自分を、少し離れた場所から客観的に見られるようになったサインでもあります。
その場所にいたら、見えないことがあります。
そこから距離ができたことで、見えてくることがあります。
過去の自分は、未熟だったのではなく必死だった
過去の自分を振り返ると、つい「 なんであんなことをしたんだろう 」と思いたくなります。
- もっと落ち着いていればよかった
- もっと上手に伝えればよかった
- もっと早く気づけばよかった
そう思うこともあります。
でも、そのときの自分には、そのときの事情がありました。
そのときの体力があり、そのときの知識があり、そのときの安心感がありました。
人間関係や環境も、今とは違っていたかもしれません。
今の自分が見えているものを、昔の自分が同じように見ることができたとは限りません。
昔の自分は、ただ未熟だったわけではなく、そのとき持っていたもので、なんとかバランスを取ろうとしていました。
そのときの自分なりの守り方で、その場をがんばって生きていたんです。
今から見ると、ぎこちなく見える選択もあります。
もう同じやり方は選ばないと感じることもあります。
それでも、あのときの自分にとっては、それが精一杯の守り方だったのかもしれません。
恥ずかしさの奥には、感覚の回復がある
本当に余裕がないとき、人は自分の違和感を後回しにしやすくなります。
- 今はそんなことを感じている場合じゃない
- ここで自分の気持ちを出したら、余計にややこしくなる
- とにかくこの場をおさめなきゃ
そうやって、自分の感覚をいったん横に置きます。
それが続くと、自分が何を感じているのか、というのを後回しにします。
そして、相手から正解に見えるか、どうすれば相手に責められないか、ということに意識が向く。
これは、正解探しモード という状態に入っているサインです。
正解探しモードに入っているとき、人は自分の感覚よりも、外側の反応 をチェックします。
- 相手の顔色
- 空気
- 評価
- 結果
- 言葉の正しさ
そこに意識が向きすぎると、自分の内側の声は聞こえなくなります。
過去を振り返って「あれはしんどかったな」「もうあのやり方はしたくないな」と思えるようになる。
これは、自分の感覚が戻ってきた ということでもあります。
恥ずかしさは、痛い感覚です。
けれどその痛みの中には、成長のサインが含まれている。
そう考えると、恥ずかしさはただ苦しいだけのものではなくなります。
黒歴史ではなく、成長の地層として見る
過去の自分を思い出して恥ずかしくなると、その記憶を消したくなることがあります。
なかったことにしたいし、思い出したくない。
そう感じるのは自然です。
でも、その過去の自分がいたから、今の自分がいます。
そのときは苦しかったものも、あとから見ると、自分を理解するための材料 になります。
なぜあのとき、あんなに不安だったのか。
なぜあんなにがんばらないといけないと思っていたのか。
ひとつずつ見ていくと、過去はただの失敗ではなくなります。
黒歴史に見えていたものは、成長の地層 だった。
そこには、そのときの自分が生きるために使っていた守り方が残っています。
恥ずかしさは、責める合図ではなく、見直す合図
恥ずかしさが出てきたとき、大切なのは、自分を責める方向へ行きすぎないことです。
「 なんであんなことをしたんだろう 」という視点だと、過去の自分を責める流れになりやすくなります。
でも、そこで少しだけ見方を変えてみます。
- あのとき、自分は何を守ろうとしていたのか
- あの言葉の奥には、どんな不安があったのか
- あのがんばり方で、何を避けようとしていたのか
- 今なら、どんな守り方を選べるのか
こう見ると、恥ずかしさは自責の入口ではなく、成長につながる自分研究の入口になります。
過去の自分を裁くのではなく、そのときの気持ちを探る。
言葉、行動、反応の奥にあった流れを見る。
そうすると、過去の自分に対して少しだけやさしくなれます。
あのときは、あの守り方しか知らなかった。
でも今は、別の守り方 を選べるようになってきた。
この見方ができると、過去の自分も、今の自分も、少しほどけていきます。
今の自分が育ったから、昔の自分が見える
過去の自分を見て恥ずかしくなるのは、悪いことではありません。
同じ場所にいたら、同じものは見えません。
昔と今の間に距離ができたから、見えるものがあります。
あのときは、飲まれていた。
今は、少し観察できる。
あのときは、正解を探していた。
今は、自分の感覚を確認できる。
これは、とても大きな変化です。
恥ずかしさは、過去の自分を否定するための感情ではありません。
今の自分の視点が育ったことを知らせてくれる感覚 です。
- あのときの自分は、あの守り方で生きてきた
- 今の自分は、それを見える場所まで来た
- ここからは、少し違う守り方を選んでいける
過去の自分を恥ずかしいと思えるほど、今の自分は変化しています。
それは、消すべき記憶ではなく、心の成長が始まっている大事な証です。
